東野圭吾は推理ものを書くよりこういったものを書くほうがずっとよいと思う。
なぜ人物像がさほど必要とされない推理ものであんなできにになり、
人物像が必要な物語でよいものができるんだろうか。
「手紙」
確かに、今ヒットしている訳もなんとなくわかる。ちょうどタイムリーな話題なんではないだろうか。
差別は絶対にあるし、自分ではどうしようもない差別もあるし、かつ差別されてるがわにも問題があることもある。
そして道徳的にもそれははっきりと言えない状況になっている。差別はいけないと習うことは必要だけどそこから先は各人にお任せします、っていう今の教育制度に問題があるんだろうね。
実態を何も知らずに「差別はいけない。」なんてキレイごとばっか言ってる人らが多すぎやしないかい?

殺人者の弟っていう設定って明らかに隠喩になってると考えると東野圭吾すげぇなぁと思ったりしました。